主要寺院の紹介
HOME > お寺紹介
韓国最大の仏教宗派の総本山 曹渓寺 

曹渓寺はソウルの四大門(ソウルにあった四つの大門、現在は南大門と東大門が残っている)内にある唯一の主要寺院で、1910年に建てられ、1936年に韓国仏教の曹渓宗の総本山となりました。曹渓寺という名は仏教浄化運動の後に改められたものです。
これは中国禅宗の第6代祖師である慧能(638-713)が暮らした山の名前に因んだものですが、直接的には松広寺のある曹渓山から由来したものです。
大雄殿は1937年に建築が始まり、1年6ヵ月をかけて完成された木造建物で、外部には仏陀の一代記と教理を表した壁画と巨大で精巧な彫刻が施された門があります。大雄殿は行事が行われる中心となる建物で、一年中様々な行事、つまり説法や読経、法要、法会、特別儀式、そして祝いの儀式が行われます。内部には全羅南道の道岬寺から持って来たと伝えられる割と小さな仏像があります。
仏像の後ろには伝統的な幀画が掛けられていて、その中央には釈迦牟尼が描かれ、その両側には四天王が、そして一番上には仏陀の弟子たちが描かれています。また木版に刻まれた経典が入ったガラスの箱も置かれています。
大雄殿の両側の内壁には数百の仏像が描かれていますが、これはあまねく宇宙に存在するたくさんの仏陀を象徴しているのです。
大雄殿の裏には曹渓宗の総務院があり、大雄殿の前には1914年スリランカの僧侶が持って来た釈迦の舎利1顆が収められた七層の石塔があります。
左側には梵鐘楼があって、ここに大太鼓や梵鐘、雲板、木魚があり、寺院生活の規律を知らせたり、儀式の際には暗証される仏の教えに人々が耳を傾け、自在を得るようにと使われています。大太鼓は規則的なリズムでたたいて全ての動物を導き、梵鐘は朝28回、夕方に33回鳴らして、地獄で苦しむ魂を導きます。
また雲の形をした雲板は空中に棲む全ての生物を、そして魚の形をした木魚は水に棲む全ての生物を導くためのものです。これらは一年中一日も欠かす事なく、冬は午前4時と午後6時、夏は午前4時と午後7時に鳴らされます。
総務院の隣には新しく建てられた徳王殿があり、ここは阿弥陀仏が祀られています。仏陀の両隣には地蔵菩薩と観世音菩薩が祀られています。
曹渓寺の境内には中国から伝わったと思われる樹齢400年を超えた槐木が一本あります。又、寺院の外には多くの仏教関連商店が立ち並び、仏教書籍や鐘、木鐸、仏像や記念
品を販売しています。

住所 ソウル特別市 鍾路区 堅志洞 45
電話 02-732-2183
営業時間 24時間(大雄殿・極楽殿は4:00~22:30頃まで)
休業日 年中無休
交通 地下鉄1号線鐘閣駅 2番出口 徒歩5分

▲ページTOP

美しい門がある寺院 梵魚寺

梵魚寺は金井山に位置しています。朝鮮時代の地理誌などの記録によると金井山という名前は、山の頂上の巨大な岩の上に乾かない黄金色の井戸があって、一匹の金色に輝く魚が五色雲に乗って空から降りて来て、この井戸で遊んだという伝説に因んで付けられたと言われます。また寺院の名も「梵天から来た魚が遊ぶところ」という意味の梵魚寺となったと伝えられています。
梵魚寺は新羅の文武王18年である678年に義湘大師(625-702)によって建てられたと言われます。倭冦の侵略に頭を悩
ませていた文武王は夢の中で義湘大師をお連れして7日間読経をさせ、金井山に寺を建てれば永遠に戦いがなくなるというお告げを受け、文武王がお告げの通りにすると、果たして地が開き、仏と菩薩が現れ、倭冦を追い払ったと言われます。
梵魚寺は現在、華厳宗10寺院の一つとして名高く、特に門が美しいことで知られ、伽藍の配置も独特です。一番奥には大雄殿があり、中央には全ての民を救うための普済楼が、そして手前には3つの門があります。
一番目の門は1614年に建てられた‘一柱門’です。柱が一列に並んだ3間の建物で、この門をくぐった人は迷いのある心がひとつにまとまり、乱れのない静かな心になり、そうして初めて真理を悟ることが出来ると言います。二番目は‘四天王門’で四天王の幀画が安置されていますが、彼らは仏法を守る役目を果たしています。もともとヒンズー教に起源を持つこの守護神たちは、これから仏になるシッタルタが父の下を離れ出家した夜、馬の四本の脚を支えて王宮の壁を乗り越えられるようにしたと伝えられています。北の守護神である多聞天王は仏の教え、すなわち経を表し、死を象徴する塔を手にしており、南の守護神である増長天王は自分の力を倍にする力があり、常に敵を倒すことで名高い天王です。又、持国天王は東を守り、風や雷、雹をあやつる弦楽器を持っているのですぐ見分けられます。そして西を守る広目天王は片手には竜を、もう片手には宝石を持っています。三番目の門は‘不二門’で、この門を通ると全てを区別する心、つまり自分と他人、好きと嫌いなどの区別が実は仮のもので、しいては俗世と仏の世界も異なるものではないということを悟るとされています。
寺院の一番奥に位置する大雄殿は壬辰の乱で焼失し、1614年に再建されたもので、朝鮮時代の木造工芸の精巧さを充分に見せてくれています。天井には多くの花が刻まれていますが、これは仏が教えを説くたびに花が天から降ってきたという経典の一節に基づいています。
梵魚寺には二つの舎利塔がありますが、三層石塔は新羅時代、七層石塔は近世に建てられたもので、インドの高僧が伝えた釈迦牟尼の残した遺物が祀られている石塔です。梵魚時の周辺には11の庵があり、それぞれに特徴があり、足をのばしてみるのも良いでしょう。又、寺院の周りの藤の林は人々を梵魚寺にひきつけるもう一つの魅力となっています。

住所 釜山市(プサンシ)金井区(クムジョング)青龍洞(チョンリョンドン)546番地
電話 051-508-3122
休業日 年中無休
交通 地下鉄1号線ポモサ(梵魚寺・BEOMEOSA)駅下車、バスで15分程

▲ページTOP

切ない伝説を持つ寺院 伝灯寺

伝灯寺は‘法(真理)の灯’を伝えるという意味を持つ寺院で、ソウルの西北、江華島にあります。江華島は韓民族の始祖である檀君の建国神話の地であり、高麗時代には蒙古軍、朝鮮時代末期には開国を迫る列強国と対立した護国精神の宿る地でもあります。
伝灯寺には、いくつかの伝説が伝わっており、時代は高麗25代忠烈王(在位1275-1308)の時にさかのぼります。
この王には2人の王妃がいて、第1王妃は元国世祖の娘である中国の女性で、もう一人は貞和という名の高麗の女性でした。ある日、第2王妃は王の寵愛を受ける第1王妃に嫉妬したとして投獄されました。そこで王の愛を失った王妃は伝灯寺に願をかけ、伝説によると王妃は玉で作った美しい提灯(玉灯)を1282年に供えたと言います。そして寺院の名も、「お供えした灯の寺院」という意味の伝灯寺となったと伝えられています。
寺院の建立時期は定かではありませんが、高句麗時代に阿道和尚によって建てられたとされ、その後数回の火災によって焼失したものを再建したものです。
伝灯寺の現在の大雄宝殿は1621年に建てられた建物を1855年にもう一度再建したもので、規模は大きくないですが端整で精巧な彫刻で飾られ、朝鮮後期の建物の中で白眉とされています。
内部は釈迦牟尼が祀られ、その左隣りには智恵の菩薩である文殊菩薩、右隣りには慈悲の観世音菩薩が脇侍として控えています。そして大雄宝殿の右側には1544年に浄水寺で改版した‘法華経’木版104枚が保管されています。
大雄宝殿の四角の柱の上には、女性の姿をした裸像が軒の重さを支えていますが、伝説によると、大雄殿建立に当たった大工頭が、結婚しようと思った女性に建立に対しての賃金を預けたところ、その女性が自分の純情を裏切って、預けたお金をもって姿を消してしまったといいます。そこで大工頭は女性の姿を刻み、永遠に法堂の屋根を支えるという苦しみを与えて復讐したと伝えられています。
伝灯寺に伝わるもう一つの伝説は、寺院の入り口にある大きなイチョウの木にまつわるものです。この木からは毎年多くの銀杏が取れたことで有名だったのですが、日帝時代には全て取り立てられていました。その時近くの白蓮寺の秋松禅師が3日間祈禱を捧げたところ、実が一つもならなくなったと言われています。
大雄宝殿の次には入り口近くの小さな梵鐘閣にある鉄製の鐘をご覧ください。この鐘にある銘文によると、これは中国北宋時代1097年(韓国では高麗粛宗2年)に中国懐州にある崇明寺で鋳造されたもので、韓国の宝物に指定されています。
伝灯寺には三つの主要殿閣があって、大雄宝殿の隣にある薬師殿、地蔵菩薩と十王を祀っている冥府殿、そして、三人の聖人を祀った三聖閣がそれです。
伝灯寺は鼎足山に位置していますが、鼎足山城はBC2333年に韓国を建国した檀君の三人の息子が一夜の内に建てたものだと伝えられています。

住所 仁川広域市江華郡吉祥面温水里635
電話 032-937-0125
交通 新村駅より直行バスあり。

▲ページTOP

孝行の寺院 竜珠寺

竜珠寺は世を去った父を想う孝行息子によって建てられました。朝鮮時代の正祖大王(在位1776-1800)は父の死を深く悲しんでいましたが、ある日、子が親に受けた恵みについて説く説法を耳にしました。正祖の父を懐かしむ心は強く、ついに葛陽寺祉に竜珠寺を建て、父の墓を移しました。葛陽寺はもともと854年に建てられ、952年に焼失した寺院でした。
竜珠寺は山の中にこそありませんが、境内に入ると安らかな雰囲気に心がみたされます。この寺院の名前もまた伝説から由来しています。寺院が完成する前の晩、正祖は願いをかなえてくれるという如意宝珠をくわえた竜が天に上る夢をみました。この夢から竜珠寺と呼ばれるようになったと言われます。
竜は神通力があるという伝説的な動物で、帝王の象徴であり、邪鬼を追い払うと信じられていました。また竜は守護神として外敵から国を守ってくれるとされ、海竜についての伝説は数多く残されています。
新羅文武王は偉大な竜に生まれ変わって国を守るため東海の巨大な岩の下に墓を作ったと言われ、又、高麗の歴代の王は神聖な海竜の子孫で、脇の下に竜のウロコがあったと伝えられています。
竜珠寺は1911年に韓国仏教曹渓宗の25大主要寺院の一つとなり、1955年には仏教専門講院が開設され、1969年には座禅道場である中央禅院が建てられました。
竜珠寺には様々な特徴があります。まず門の紋様は一般的な寺院ではなく、宗廟祠堂のものであり、寺院の柱も木材ではなく王宮のもののように石柱で、建築物の一部はまさに宮殿の姿をしています。
大雄殿には三尊が祀られており、釈迦牟尼仏を中心に、東には医術の仏である薬師如来、西には西方浄土の仏である阿弥陀仏が控えています。
仏像の後ろには韓国寺院の中で唯一の西洋画法で描かれた後仏幀画がかかっていますが、遠近法が駆使されている大変珍しいものです。仏像の上にある彫刻は大変精巧なもので、太陽、鳳凰と共に雲の上には5匹の竜、そしてその両側には極楽世界の仙人の姿を見ることができます。
銅で作られた梵鐘は、新羅時代の特徴が見受けられますが、この時代の梵鐘には竜が2本の脚で鐘を包み込むようにしているのが一般的であるにもかかわらず、竜珠寺の梵鐘の竜は1本の脚で鐘を持ち上げるようにしている事から10世紀初め、高麗王朝の頃のものだと思われます。
又、無仏の世の衆生を導く地蔵菩薩のために建てられた殿閣の裏には、正祖が父王のために建てたと言われる五層石塔があります。

住所 京畿道華城市松山洞188
電話 031-234-0040
交通 水原駅又は餠店駅よりバス

▲ページTOP

南漢江を見下ろす寺院 神勒寺

京畿道驪州郡鳳尾山のふもとにある神勒寺は、新羅真平王の時代に元暁大師によって創建されたと言われますが、定かではありません。しかし神勒寺という名の由来は次の伝説に因るものです。
漢江の南の両岸に住む人々は、江の真ん中に浮かぶ島に棲んでいる野獣に苦しめられていたのを懶翁大師がさるぐつわをして、この野獣を手なづけたという伝説があり、ここから「神聖なさるぐつわ」という意味の神勒寺と名付いたと言われています。
この伝説からも明らかなことは、神勒寺と懶翁大師の間には深い結び付きがあったということで、彼にまつわる話は神勒寺のあちらこちらに残されています。
彼は禅の大家で、力強い説法で自分の学派を作り上げ、高麗の恭愍王の玉師に任命された人物です。一生を神勒寺で過ごしたこの高僧がこの世を去った時、5色の雲が山を覆い、晴れた空から雨が降り、火葬したところ多くの舎利が出ました。この舎利は石鐘の形をした浮屠に祀られています。
世宗大王(在位1418-1450)の墓である英陵が1469年に驪州に移されると、1472年に大々的な増改修仏事が行われ200間の建物が建立されました。そしてこの時に神勒寺を英陵の願刹(先祖の冥福を祈願する寺院)としました。
しかしこの寺院は、16世紀には日本、17世紀には清国からの侵略によって寺院のほとんどが廃虚と化しました。その後再び修復を重ね今日に至っています。
金堂には極楽宝殿として西方浄土の仏である阿弥陀仏、修行の菩薩である大勢至菩薩、そして慈悲の菩薩である観世音菩薩が祀ってあります。ここに掛けられた懸板には‘千秋万歳’と書かれていて、懶翁大師の親筆であると伝えられています。左側の壁には背景となる絵とともに地蔵菩薩が描かれ、後ろの壁には仏壇が設けられています。仏壇の上には7体の仏を描いた七仏画があり、又、釈迦の教えを守護する神衆の絵も祀ってあります。
地蔵菩薩と十王が祀られた冥府殿には判官たちが十王を補佐し、その後ろには様々な地獄で刑罰を受けている幀画があります。
又、祖師堂には無学大師(1321-1405)、指空大師(?-1363)、懶翁大師の3和尚の真影があります。有名な風水地理の大家である無学大師は、朝鮮王朝を創建した李太祖の王師であり、彼の忠告に従って都を漢陽(現在のソウル)に移すなど、建国事業に多大な影響を及ぼした人物です。指空大師は中国から来たインドの僧侶でチベットラマの生まれ変わりだと言われた人物であり、懶翁大師の思想形成に影響を及ぼしたと言われています。
境内の東南側には高麗時代の多層塼塔があって、古くから神勒寺が‘レンガの寺’と呼ばれたのは、このレンガ塔が川岸を行き来する人々の目によくついたからです。この塔の基壇部は花崗岩で、レンガは様々な花模様で飾られています。

住所 京畿道驪州郡北内面天松里 282
電話 031-885-2505
休業日 年中無休
交通 麗州バスターミナルよりバスで10分

▲ページTOP

文殊菩薩の道場 月精寺

新羅時代の高僧である慈蔵律師が「静かな月」という意味の月精寺を五台山に創建しました。太白山脈の峰に沿ってそびえる五台山には5つの峰がありますが、ここは主だった菩薩が住んでいるところだと思われていて、それぞれの峰には庵があります。中央に獅子庵、東には観音庵、西に水精庵、南に地蔵庵、そして北に弥勒庵が散在しています。
伝説によると同じく五台山にある上院寺を創建した新羅の二人の王子、宝川と孝明はこの5つの峰でそれぞれ1万人の菩薩に出会ったとされます。
慈蔵律師が中国の五台山で文殊菩薩に会おうと池のほとりの文殊石造の前でお経を唱えていると、7日目の夜、文殊菩薩が現れ、彼に梵語でつづられた4行詩を与えたと言われます。翌日一人の老僧が来て、何を悩んでいるのかと尋ねるので、地蔵律師が詩を受け取ったが意味が分からないと答えたところ、その老僧はその詩を説明し、あなたの国にある五台山に行けば一万の文殊菩薩に出会えると教えてくれました。その後さらに7日間お経を唱えていると一匹の竜が現れ、実は先程の老僧は文殊菩薩の化身であったと教え、律師に文殊菩薩のための寺を建てるように告げたのです。新羅に戻った慈蔵律師は643年に五台山を訪れましたが、霧に隠れて何も見えませんでした。そこで小屋を建て3日間を過ごし、これが後に月精寺となりました。
月精寺はその後数回に渡たる火災で焼失し、幾度も再建されましたが、韓国戦争の時に五台山が激戦地となったため、すべての建物が被害を被りました。寂光殿には釈迦牟尼の仏像があり、寂光殿の前には高さ1.8mにもなる薬王菩薩像と呼ばれる菩薩があります。この菩薩像は頭には円筒形の冠をかぶり、細長い顔と耳は長い髪に少し隠れた姿をしています。首には3つの線が美しく彫刻され、まるで首飾りをしているようで、幼い童の頭にひじを付いています。このような独特な特徴から見て特別な仏像彫刻の流派に属する11世紀の職人が作ったものと推定されています。菩薩像の隣にある15.2mの八角九層石塔は、釈迦の舎利37顆が収められた舎利塔で、高麗時代の多角多層塔の代表作と言えます。
月精寺から10㎞程離れたところにある上院寺には、近世の高僧の一人であった漢岩大師(1876-1951)が住んでいたのですが、韓国戦争の時に軍人たちが上院寺を燃やせという命令を執行するために押しかけた時、大師は儀式用の僧服を着て仏堂に入りました。軍人たちが出るように命じると、“君たちは軍人だから命令に従いたまえ。それが君たちの義務だ。しかし私は僧侶で、ここを守るのが私の義務だ。だから早く火をつけて去りたまえ”と言いました。軍人たちはどうしても火をつけられず門を一つ燃やして去ったと言われます。こうして月精寺と共に文殊菩薩の道場である上院寺が残されたのです。

住所 江原道 平昌郡 珍富面 東山里63
電話 031-339-6800
休業日 年中無休
交通 珍富よりバスで20分

▲ページTOP

慈悲の寺院 洛山寺

洛山は観世音菩薩の住む韓国の補陀洛伽山(観世音菩薩は補陀洛伽山にいる)です。観世音菩薩は昔から人々に敬われた完全な慈悲思想を表す大乗仏教の中心的存在です。菩薩は様々な姿で表されていますがある観音像は4本、6本、あるいはそれ以上の手(42本)をもつとされ、中でも千手千眼観音菩薩像は手が1,000本あって、その一つ一つに目が付いていて苦しむ人々を見守り、救いの手を差し伸べると言われます。観世音菩薩は人々の心にある究極的な慈悲の菩薩と言えます。観世音菩薩は竜の守護を受け、この竜は海に囲まれた島に棲んでいるとされています。したがって東海を臨む洛山で、韓国の補陀洛伽を発見出来るのも不思議なことではありません。
洛山寺は671年である文武王11年に義湘大師によって建てられた寺院です。義湘大師は唐から帰国し、観世音菩薩が東海を臨むこの海岸の洞窟にいると聞き、そこを訪ねました。7日間の祈禱と修行の後、きれいな水晶で作られた数珠をもらい受け、東海の竜からは如意宝珠を与えられました。これを持ち帰り、さらに7日間お経を唱えるとついに観世音菩薩に出会い、次のような言葉を聞きました。“わたしがいる場所の上の方(座上)にある竹を見るだろう。そこに金堂を建てなさい。”大師は言われた通り金堂を建て、観音像を祀り、数珠と如意宝珠も奉納し、寺の名前も洛山寺としました。
中心法堂である圓通宝殿には観音菩薩が祀られ、宝陀殿にはさまざまな姿をしたたくさんの観世音菩薩像があります。ここで目にする菩薩像の心を奪われるような美しさは、韓民族の彫刻技術のすばらしさを充分に示しているものです。
幾度にもわたる破壊と再建を繰り返しながらも洛山寺には、今でもいくつかのすばらしい遺物が残されています。朝鮮世祖大王の時代、1467年に建てられたアーチ型の虹霓門はこの地域の26村の郡守が一つずつ寄付したという26個の石を積み上げて作られたと言われます。美しい七層石塔も世祖大王の時のもので、高さは6.2m、各層の屋蓋(屋根の部分)と塔身は一つの石でできています。覆鉢と宝輪などがのせられている相輪部には、中国で発見されたラマ塔と類似した点が見られます。
圓通宝殿を取り囲む黄土のレンガ壁である垣墻は世祖大王の頃のもので、その図案がすばらしく、ほとんどは最近復元されたものですが、一部分は当時のものです。青銅の鐘は1469年に作られたもので、菩薩像や蓮の花模様、水の流れが彫刻され、鐘の上には二匹の竜の美しい姿があります。また1977年に完成した高さ16mの花崗岩でできた‘海水観音立像’は、優しい微笑みを浮かべ東海を見渡しています。

住所 江原道 襄陽郡 隆峴面 前津1里
電話 033-672-2447
交通 襄陽又は束草より洛山市内までバスで10分~25分

▲ページTOP

絶えず変化して来た寺院 神興寺

神興寺は雪嶽山にある主要寺院で、数世紀に渡って絶えず変化してきた寺院として知られています。
神興寺は位置、名称、信仰する仏教の宗派までも変わって来た異色の寺院です。
もともと神興寺は、現在のケンシントンホテルの位置にありました。652年に慈蔵律師によって創建され、699年の火災で焼失したものを3年後に義湘大師が建て直す時に、能仁庵址に移されたのです。1645年に再び破壊され、3人の僧侶が残るのみとなりました。ある日この3人の僧侶の夢に神が現れ、現在の位置に寺院を建てれば水、火、風の三つの災いから守られると告げました。そこで言われた通り寺を建て、「神聖で豊かな寺」という意味の神興寺と名付けました。
小道に沿って約1㎞ほど行くと一柱門が現れ、四天王門をくぐると普済楼があります。
主仏殿である極楽宝殿の外部壁には尋牛図があり、内部には阿弥陀仏が脇侍に観世音菩薩と力の菩薩である大勢至菩薩を従えて、黄金色の竜の模様がある明るい覆いの下に祀られています。
仏像の後ろには釈迦牟尼と菩薩、四隅に守護神、仏の召使と思われる年老いた迦葉尊者、若く見える阿難尊者を含む僧侶が描かれた幀画があります。
北の壁には達磨の守護者である童真の絵があり、修行中の神霊の中には変なひげをはやし、鹿の角を手にした荒神も描かれています。
中国の宋の時代である12世紀頃に描かれた尋牛図は悟りを得るための修行過程を10段階で表した絵です。牛は心で、牛を探す牧童は足跡をたどり、初めて牛に出会えるのです。彼はゆっくり牛について行くうちに牛を管理し、手なずけるようになり、同時に彼の心も清められます。茶色がかった牛がだんだん白くなっていくのは心が清められて行く事を示します。最終的には牧童は悟りの段階に入り-段階ごとに絵がある-そこに止まらず平凡な世の中に戻ります。
冥府殿は地獄で苦しむ人々を導く地蔵菩薩を祀ったところで、菩薩像の後ろには菩薩と十王の絵があります。
極楽宝殿と冥府殿の間にある三聖閣には三聖幀画が掛けられていますが、山神は虎と共に描かれています。山の中に寺を建てたことに感謝して、大きな儀式がある時は必ずこの山神を敬い讃えます。
孤独な隠居者である独聖は一人で修行をし、阿羅漢となった単独修行者の代表です。
七星は人間の寿命を治める存在で、出産をした女性は伝統的に七星に糸を一巻捧げて赤ちゃんの無病長寿を祈願します。
七星は太陽、月、七つの星、南極星の高僧、そして飛天像に取り囲まれています。
寺院の周りの山や森の中には新羅の慈蔵律師の時代にまでさかのぼる庵があります。

住所 江原道 束草市 雪岳洞 170
電話 033-636-7044
交通 束草市内よりバスで30分

▲ページTOP

石造芸術の真髄である寺院 仏国寺と石窟庵

仏国寺は韓国で最も有名な寺院で、その名は文字通り「仏の国」を意味し、新羅の都であった慶州の郊外にあります。
仏教を国教と定めた新羅法興王の時の535年に創建され、その後751年の景徳王の時に宰相で会った金大城が仏道を磨き、仏法を興そうと増築しました。また、彼は両親の冥福を祈るために石屈庵を建てたといわれます。仏国寺は新羅時代の建築物の偉大な業績であり、精巧でありながら深い味わいと審美的な美しさをもつ新羅精神の極致と言えます。
境内には2つの石塔が向かい合って立っていて、その一つである釈迦塔は統一新羅時代の三層石塔で、単純化された石塔の代表的存在で、その単純な美しさは向かいの精緻な美しさを持つ多宝塔と対照的な一対をなしています。
伝説によるとアサダルという石工がこの二つの石塔を建てたと言われます。アサダルは塔を建てるために家を発つとき、若い妻のアサニョに石塔が完成すれば戻ると言い残したものの、何年待っても帰らず、ついにアサニョは夫を探して慶州に向かいます。しかし石塔の所まで行けず、近くの池のほとりで待つように言われます。塔が完成すればその影が池に映ると聞かされますが、いくら待ってもその影が映らず、途方に暮れたアサニョは、池に身を投げてしまいました。この伝説から釈迦塔は無影塔とも呼ばれています。
仏国寺は優雅な2対の石橋でも有名です。この石橋は階段を橋の形に作ったもので、つまり俗世と仏土(仏の国)を結ぶ架け橋なのです。東の階段は多宝如来の世界に通じる紫霞門へ至る青雲橋・白雲橋、西にある階段は阿弥陀如来の世界に通じる安養門へ至る蓮花橋・七宝橋です。
また9世紀に作られた2つの金銅仏像があり、一つは無量の光の仏である阿弥陀仏で、もう一つは宇宙の真理を具現する仏である毘盧舎那仏で、両方とも統一新羅を代表する大型金銅仏坐像です。阿弥陀仏は毘盧殿と回廊につながる極楽殿にあります。
韓国の仏教美術史上最高の傑作である石窟庵は751年に作られました。人工の石窟の中に世界で最も美しいと言われる仏像があります。仏国寺の後ろの吐含山頂上に9mの高さの円形の建物は仏の世界を表し、この中には39の菩薩像や釈迦牟尼から悟りを得た10大弟子、金剛力士そして守護神が祀られています。
19世紀初め頃まで参詣の人々が絶えなかったこの石窟庵は、朝鮮末期の混乱期には人々から忘れ去られていましたが、1909年のある日、夕立に遭った一人の郵便配達員が雨宿りのために入った石窟の中ですばらしい仏像を発見したことから、再び日の目を見ることになりました。
1995年、仏国寺と石窟庵はユネスコが選定した‘世界文化遺産’の一つに登録されました。

仏国寺詳細

住所 慶尚北道 慶州市 進峴洞 15
電話 054-746-9913
休業日 年中無休
交通 慶州駅よりバスで40分又はKTX新慶州駅よりバスで70分

石窟庵詳細

住所 慶尚北道 慶州市 進峴洞 15
電話 054-746-9913
休業日 年中無休
交通 慶州駅よりバスで40分又はKTX新慶州駅よりバスで70分

▲ページTOP

僧兵の寺院 直指寺

韓国の古い寺院の一つである直指寺は、黄岳山のふもとに位置し、40棟の建物がある大寺院です。
もとは418年の新羅訥祇王の時に新羅に初めて仏教を導入した阿道和尚によって創建されたと言われます。しかし仏教が新羅で公に認められたのは527年頃のことでした。
寺院の名前は独特で、「まっすぐを指している寺」という意味で、その由来にはいくつかの説があります。阿道和尚が黄岳山を指しながらすばらしい寺を建てられるいい場所があると言った事から由来したという説と、言葉や字に依存せず人の心を見通すという禅仏教の中心的な教えとする韓国仏教の核心思想をこの寺の名称が表しているという説があります。
この寺と関係した最も有名な僧侶には泗溟大師(1544-1610)がいて、彼は幼い時に両親を亡くし、16才で直指寺に入門し、修行を積みました。その後は金剛山で西山大師の下で学びました。
壬辰の乱の時(1592年)、宣祖大王は漢陽(現在のソウル)を離れて避難したときに西山大師を呼び寄せて泗溟大師と共に軍事作戦の責任を任せました。その後日本軍が引き上げると泗溟大師は1604年に王宮の特使として日本に派遣されます。そこで大師は日本国と平和条約を結ぶことに成功し、捕らえられていた3,000人余りの人々を連れて帰国します。
そして大師の功績を讃えるために直指寺は再建されることになったのです。泗溟大師は1610年に海印寺で入寂し、直指寺には彼の祠堂があります。
一柱門を通ると巨大な四天王門があり、境内に入ると統一新羅時代の三層石塔が二つあります。朝鮮時代の代表的な建築物である大雄殿には三尊仏、つまり釈迦牟尼仏、阿弥陀仏、そして薬師如来が安置されています。
観音殿の隣に泗溟大師の祠堂があり、朝鮮時代に慶州で採れた玉で作った1,000の小さな仏像がある千仏殿があります。千仏殿にある小さな仏像の中には裸の童子像がありますが、この像が最も早く目に付くと男の子を産むと言われます。
右側には地獄の閻魔大王5人が2列に並ぶ冥府殿があります。門の横には邪鬼を追い払う3名のお付きと守護神が各々の王を補佐しています。又、応真殿には16羅漢像があります。
直指寺でも最も貴重な仏像は石像の薬師如来坐像で、統一新羅時代に作られたものと推定されています。右手は右ひざに乗せられ、指は降魔印つまり‘邪鬼をひざまずかせる’手印を結んでいます。そして左手には薬壷を持っています。
直指寺には1713年に鋳造された有名な梵鐘がありますが、上部には地獄を破壊する真言と‘唵魔尼叭迷吽、蓮の花に咲いた宝石よ’という文句が刻まれています。
そして、直指寺は鬱蒼とした松林と秋の紅葉の美しさで知られています。

住所 慶尚北道金泉市代項面雲水里216
電話 054-436-6174
休業日 年中無休
交通 金泉駅よりバスで25分

▲ページTOP

宝物の寺院 浮石寺

創建説法によると仏教を学ぶために唐に渡った義湘大師はある信徒の家に泊まることになったのですが、その家の娘である善妙は大師に恋心を抱き、結婚を申し込みました。しかし義湘大師は逆に善妙に教えを説き、ついには善妙も仏の道を歩むことになりました。善妙は“永遠に大師の弟子となって、大師の勉強や布教、仏事を成就させるお手伝いをします。”という願を立てたと言われます。
その後、善妙は華厳学を学び、帰国する義湘の船を守るために海に身を投げて竜になったのだそうです。この竜は義湘が新羅についた後にも彼を守りつづけ、義湘大師が華厳の大教を広める地を求め鳳凰山に至った時も、そこに住んでいた500人の泥棒一団を竜が巨大な岩になって威嚇して追い払い、無事に寺が建てられたと伝えられます。
今でも浮石寺の無量寿殿の西には竜が変じたという「浮石」という岩があり、寺の名前もここから由来したものだと言われます。
浮石寺は新羅文武王16年(676年)に王命によって建てられた寺院です。無量寿殿は浮石寺の本堂で、高麗中期に再建されたもので、高麗時代の最も優れた木造建物と評価されています。6つの柱で支えられたこの建物は、柱と柱の間が広く、柱の高さも外側が少し高くなる柱心包型の最も完全な形態を見せている殿閣です。内部には西方浄土仏である阿弥陀仏の塑造如来坐像が東に向かって西側に安置されており、これは韓国で塑造仏像の中で最も古いものです。
無量寿殿の左側には険しい崖があり、その下には伝説的な‘飛んで来た岩(浮石)’があって、その岩の上には三層石塔、後方には義湘大師を守るために竜になった善妙を祀る善妙閣があります。
義湘大師の肖像画がかけられている祖師堂は、大雄殿から北東に、約100mのところにあります。
祖師堂の内壁には本来、四天王と二人の神などを描いた壁画があり、これは高麗時代の壁画の秀作といいます。しかし、現在は取り外されて別のところに祀られています。
祖師堂の軒下には義湘大師がインドに発つときに地面に差し込んだ杖から育った木が一本あります。
義湘大師は“この杖から木が育ったら私は死んでいないと思いなさい”と言ったのだそうですが、杖からは見事に枝や根が伸び、1300年余りが過ぎた今日でも青々とした葉が生い茂り、花が咲きます。
浮石寺にはこの他にも圓融国師碑や二つの三層石塔、浮屠、幢竿支柱、石灯など貴重な文化財が数多くあります。

住所 慶尚北道栄州市浮石面北枝1里 148番地
電話 054-633-3464
交通 栄州市内バスターミナルからバスで1時間

▲ページTOP

法宝の寺院 海印寺

法宝の寺院といわれる海印寺は、新羅哀荘王(在位800-809)3年に新羅王室の協力の下に順応と利貞の二人の大師によって創建されました。
海印寺創建の意味は‘海印’というこの寺の名称から分かります。‘海印’とは華厳経の中の‘海印三昧’という言葉に由来しており、これは変わらぬ心を守るという、すなわち‘一心’の意味です。
つまり海印寺は華厳の哲学、思想を広めるために建てられた華厳の大道場であり、又、この名前は創建者である大師の理念をも示しているのです。
3つの門を通ると境内の中庭があり、階段を上って行くと法宝宗刹である海印寺の中心法堂である大寂光殿があって、中には毘盧舎那仏、文殊菩薩そして普賢菩薩などの仏像や仏画があります。
そして、大寂光殿の前にある3層石塔は創建時のもので今に当時の面影を残しています。
大寂光殿の裏には経典の木版である八万大蔵経を保管している二つの板庫がありますが、これは1488年に建てられたもので、創建後の度重なる火災の中でもこの板庫(蔵経閣)だけは残されました。これは大蔵経が作られた当時の護国と護法の精神ゆえからなのかも知れません。
八万大蔵経は高麗時代の仏教文化の真髄であります。これは国難克服の祈願を込めて国家事業として11世紀頃に完成された初雕大蔵経がその始まりです。この初雕大蔵経は大邱郊外の符仁寺に所蔵されていましたが、高宗19年(1232年)に蒙古軍の侵略で、焼失してしまいました。
それで、この蒙古軍の侵略を撃退するために再版雕造し、1248年に八万大蔵経が完成しました。
従って大蔵経には仏の力を借りて蒙古軍を撃退しようとする祈りが込められています。
白樺を木版として使うために木材を3年間海水に漬け、その後海水で蒸して日陰に干し、12年後に81,258枚を作り、これに字を彫ったもので、これは学問的分類、正確な校正、優れた字体、精巧な彫刻などの点で仏教史上最高の経板と言えます。
この大蔵経が保存されている蔵経板庫は、通風や湿度調整が自然に行われる理想的な地理的条件を備えた伽倻山中腹に位置しているのに加え、窓の大きさを様々に調整することによって、空気が室内に入って上下から出て行くように設計されており、大蔵経の保存にはまさに理想的な条件を備えています。
現在220人あまりの僧侶や修道僧が境内に住んでいる海印寺は、僧侶の数においても韓国最大の寺院で、韓国最大の僧伽大学があるところでもあります。

住所 慶尚南道 陜川郡 伽倻面 緇仁里 10
電話 055-934-3000
交通 大邱西部ターミナルよりバスで1時間30分

▲ページTOP

仏宝の寺院 通度寺

「道を通って入る」という通度寺は、韓国の三宝寺院の内、仏宝寺院として65棟の建物がある大きな寺院です。新羅善徳女王の時代である646年に慈蔵律師が仏の舎利である化身を中国から持ち帰り建てた寺院で、一時韓国仏教の中心地として栄えました。
王族出身である慈蔵律師は宮廷で出世することもできたのですが、僧侶の道を歩みました。彼の能力を惜しんだ王は、彼に官職を与えようとしましたが、慈蔵律師はこれを断り、激怒した王は再び断れば斬首刑にすると威嚇しました。しかし慈蔵律師は落ち着いて答えました。“仏教の律法に逆らいながら100年を生きながらえるより、一日を守りながら死にます。”この言葉に王は彼の固い決心を知り、彼が僧侶として生き続けることを許しました。
境内の入り口には風一つない松林につながる三星半月橋を通ります。ほとんどの寺院には境内に入る門の前に橋(たいていはその下に澄んだ水が流れます)がありますが、これは俗世から霊的な世界に入るものは心をきれいにしなければならないということを表しています。
通度寺の大雄殿は1641年の仁祖大王の時に増築されましたが、特異な点は仏像がないということです。天井には菊の花が美しく彫刻されています。
大雄殿の裏には鐘の形をした浮屠がある祭壇につながる金剛戒壇があり、ここは慈蔵律師が中国からもって来た釈迦如来の真身舎利(本物の舎利)が祀ってあるところです。つまり仏の舎利があるので、ここがまさに仏であり、従って大雄殿には別途の仏像が必要ないということです。
石塔は舎利塔が発展したもので、舎利塔には仏の舎利が保管されているため、仏の死後にその存在を示す象徴となりました。仏陀が火葬された後に、その舎利は彼を慕っていた8ヵ国の国王に配分され、各国に一つずつ舎利塔が造成されました。時が経つにつれて舎利塔には高僧の舎利も祀られるようになりました。中国で舎利塔は石塔に発展し、さまざまな形に作られました。今日の浮屠は形や装飾が様々で、鐘の形の塔、多層塔、低層のシンプルな塔などいろいろです。
又、通度寺には多くの文化財がありますが、奉鉢塔、銀入糸銅製香爐を始め、毘盧舎那仏像がある大光明殿、釈迦牟尼の一生を描いた八相幀画が描かれた霊山殿八相図などがそれです。大雄殿の西にある九竜池は通度寺の歴史を物語っていて、伝説によると元は大きな池があった所で、九竜が棲んでいたが、慈蔵律師が退治して、その池を埋めて大伽藍を成し遂げたと言われます。ここには今でも一匹の竜がいて、日照りが続いても水が乾かないので‘九竜神池’と呼ばれます。

住所 慶尚南道梁山市下北面芝山里583
電話 055-382-7182
休業日 年中無休
交通 釜山市内から車で1時間

▲ページTOP

未来仏の寺院 金山寺

金山寺は全州近郊の母岳山に百済の法王の時(600年)に創建された寺院で、記録によるとその年に38人の僧侶が得度したとされています。しかしこの時は大寺院ではなく、金山寺が大寺院となった時期は真表律師が寺院を建て直した新羅景徳王代以降だと推定されます。現在の金山寺は16世紀の壬辰の乱で破壊された後に1635年に再建されたもので、現在でも多くの文化財が残っています。
伝説によれば真表律師が中国から戻ったある日、弥勒菩薩が現れ、二つの巻物に占書と189の簡子を与えられたと言います。この占書は当時大きな権威をもっていて、景徳王は律師を王宮に呼び、指示と予言を頼んだと伝えられています。
律師は竜王に出会い、竜王は律師に玉で作った服を与え、金山の森の中に導くと、どこからともなく現れた数十人の男女の協力で数日で寺院は創建されたと言われます。
金山寺の弥勒殿は高さ20mで韓国唯一の古い三階建ての木造仏殿であり、各階にはそれぞれ違う名前が書かれた揮毫板が掛かっています。1階には‘大慈宝殿’2階には‘竜華之会’そして3階には‘弥勒殿’という名があり、巨大な屋根を支えるため、特別に角には柱が立っています。ここには未来の仏である弥勒払が祀られていますが、金メッキの仏立像は高さ11.8mであり、両隣には高さ8.8mの菩薩像があります。この弥勒仏は実際は20世紀初めに作られましたが、新羅の仏像をその原型としています。手印は‘施無畏印’つまり畏れるものなしを表し、菩薩像は朝鮮時代のものです。南の壁には真表律師に戒律を与えている弥勒仏の姿が描かれた絵があります。
韓国の王宮や寺院の伝統的な建物には驚くほど明るい色の幾何学的模様が描かれていますが、これを‘丹青’と言います。華やかな丹青の色は青、赤、黄、白、黒の5色を基本としていますが、これは東洋の5行説(古代東洋では金、水、木、火、土の5つの気があると信じられた)と関連しています。丹青の主な目的は極楽の美しい姿の象徴と木材の保護にあり、湿度や腐敗から守るために絵の具を塗る前に丁寧に処理させた後、その図に描かれる図案の輪郭は紙に書かれた図案に穴をあけ、その上から粉をたたいて木地に移します。それから鮮やかな鉱物質の染料で木に彩色します。最後に木に油を塗ってから、絵の具の上を熱したコテでこするとカビや害虫、そして風雨から木材を守れるのです。
大寂光殿の前には10世紀後半の高麗時代のものと思われる珍しい六角多層石塔があります。このような六角、あるいは八角石塔は当時流行したもので、この寺院の石塔は均衡のとれた高さ2.18mの11層塔ですが、もとは13層塔だったと言われます。

住所 全羅北道 金堤市 金山面 金山里 39
電話 063-548-4441
休業日 年中無休
交通 国鉄金堤駅よりタクシーで約40分

▲ページTOP

仏教哲学から命名された寺院 華厳寺

華厳寺という名称は韓国の仏教史上、最も影響力のあった仏教経典である華厳経に因んだもので、この経典の主題は宇宙万物は一つであるということです。景観が素晴らしい智異山の麓に位置するこの寺院は544年に縁起祖師によって建てられたという伝説がありますが、実際は統一新羅時代である8世紀頃に創建されたものです。
大雄殿の前には二つの五層石塔があります。東の塔は飾りがなく素朴で重厚な味わいがあり、西の塔は様々な彫刻で美しく飾られています。大雄殿は1636年に碧岩大師が建てたもので、華厳寺の建物の中でも最も古いものです。大雄殿の東には地獄絵のある‘冥府殿’、そして西には観世音菩薩のために建てられた‘圓通殿’があります。
また、大雄殿の左には覚皇殿があります。1703年に建てられた16mの高さのこの建築物は韓国で最も荘厳な建物の一つです。最初の名称は丈六殿だったのですが、伝説によると100人の僧侶が100日間お経をあげて、壬辰の乱で焼失されたこの仏堂を建てられるように祈願したところ、ある夜、老僧の夢に文殊菩薩が現れてすべての僧侶が手に水をつけ小麦粉に触れた時、手に小麦粉がつかないものが仏堂を建てる適任者であると告げ、試したところ、その人が桂波大師でした。文殊菩薩は桂波大師に翌日最初に会った人にお布施を願うように告げましたが、その人は貧しい老婆だったのです。彼がお布施を願い出ると、大師の心に感動し、死んで王宮に生まれて大きな仏事を成し遂げると祈願して大きな沼に身を投げました。数年後、桂波大師は幼い姫に出会いましたが、その姫は生まれたときから片手が不自由で、手を開くことができないと言うのです。桂波大師がその手を開くと、手のひらには‘丈六殿’と書かれていて、これを耳にした肅宗大王(在位1674-1720)は寺院を建てる決心をしたそうです。もとは華厳経が花崗岩でできた四方の壁に刻まれていたのですが、壬辰の乱でそのほとんどが破壊され、残りは仏像の下に保管されています。
覚皇殿の前には新羅時代に建てられた二つの重要な文化財があります。一つは高さ6mの石灯で、これは韓国最大のものです。もう一つは四獅子甘露塔で、喜怒哀楽のそれぞれの表情をした四頭の獅子が座った姿勢で甘露台を支えています。
覚皇殿の左の椿の林に沿って108階段を上ると、違う四獅子三層石塔がありますが、基礎部には浮き彫りされた四頭の獅子が優雅な石塔を支えています。四獅子の中央には石塔を見つめて立っている尼僧の像があり、この尼僧はこの寺院を創建した縁起祖師の母で、四獅子三層石塔の前方にある石灯の下で座り込んでお供をあげている像は縁起祖師であると伝えられています。

住所 全羅南道 求礼郡 馬山面 華厳寺路539
電話 061-783-7600
交通 求礼よりバスで20分

▲ページTOP

僧宝の寺院 松広寺

曹渓山にある松広寺は、仏教を信じ従うもの、つまり僧侶と信徒を代表する三宝寺院の中の僧宝寺院です。従ってここで過ごした多くの高僧を火葬(茶毘)した遺骨を祀った石碑や僧塔が数多くあります。中でも最も有名な僧侶は後に普照国師といわれ、曹渓山修禅社の開祖である僧、知訥(1158-1210)です。
一説によれば普照国師は心を共にするものたちと暮らし、仏教の教えを遂行しようという願いを持ち、その後12年間小さな寺で共同生活を営みました。しかし次第にその規模が大きくなったので理想的場所を探すことになりました。適当な場所を探すために木で鳶を彫って飛ばしたところ、今日の松広寺のある場所に降りたと伝えられます。そこに小さな庵を建て、だんだん多くなる人々を収容し、これが後に松広寺となりました。大師の遺影が祀られた国師殿は鳶が降りたその地点に建てられたと言われます。
松広寺は韓国戦争の前まで、規模も大きく僧侶の数も多かったのですが、戦争で破壊され、その後の修復工事にもかかわらず昔の姿を取り戻すには至りませんでした。しかし1983年から1991年までの再建工事によって以前の雄大な姿を取り戻すことができました。この時に大雄殿を始め14棟の建物が再建されました。
たいてい大雄殿は境内で一番高いところにありますが、松広寺の場合は大雄殿の裏に建っている説法殿、修禅社(禅室)、16名の国師たちの遺影がある国師殿の方が高いところにあります。これはこの寺院が僧宝寺院であることを如実に物語る伽藍配置だと言えます。大雄殿には過去の仏である燃灯仏、現世の仏である釈迦牟尼仏、そして未来の仏である弥勒仏の仏像が安置されています。
松広寺の修禅社近くには下舎堂がありますが、この小さな小屋は朝鮮初期に建てられたもので、屋根には伝統的な形の煙突があり、韓国で最も古い寮舎の一つです。二本の橋が寺院の入り口を流れる美しい渓谷を結んでいます。この虹形の石橋は、建築技法においても独特なものです。寺院に入る橋の入り口には他の殿閣から完全に分離された2棟の小さな建物があります。この小屋は七七日の前日に位牌を安置し、潅浴をしたところで松広寺だけにある珍しいものです。又、松広寺には国宝3点、宝物13点があります。
1983年に入寂した九山禅師(1901-1983)が松広寺に国際禅院を建ててから、ここには禅の世界を経験しようとする多くの外国人が訪れるようになりました。又、曹渓山の反対側には、やはり一見の価値がある美しい寺院、仙岩寺があります。

住所 全羅南道 順天市 松広面 シンピョン里 12番地
電話 061-755-0107
交通 順天市内からバス

▲ページTOP

仏の一生を教えてくれる木塔のある寺院 法住寺

法住寺の入り口にたどり着く前の2㎞ほど離れたところには樹齢600年になる正二品松という松の木があります。
一説によるとこの松の木は朝鮮第7代の世祖大王の法住寺巡礼のときに、自ら枝を上げ、王の行列を通したことから正二品の官職を与えられたと伝えられています。
俗離山に位置する法住寺は「法(または弥勒)が住んでいる」という意味の寺院で、真興王の時である553年に創建されたとされていますが、一時は(新羅景徳王の時代の真表律師の頃)3千人の僧侶がいたという記録もあります。
韓国の古い寺院は何かしら寺宝を所蔵していますが、ここ法住寺は釜で有名です。直径2.7mの鉄製の釜は、記録によると12世紀に僧侶や巡礼者に飲食をふるまうために使用されたと伝えられています。
韓国の三大仏殿の一つである法住寺の大雄宝殿は法身仏(毘盧舎那仏)、報身仏(盧舎那仏)、そして化身仏(釈迦牟尼仏)など三尊仏が安置され、この仏像の後ろには悟りを得た十大弟子たちと一緒にいる釈尊の後仏幀画があります。
また、境内には塔宝建物としては国内で唯一の捌相殿があります。
韓国最古の木造五層塔である捌相殿はもともと553年に建立され、これを真似た木造塔が50年後日本の奈良にある法隆寺に建てられました。(日本には木塔が原形のまま残されているが、韓国では多くの外敵の侵略ですべて破壊された。)
捌相殿の内部には釈迦牟尼の一生を8段階で表した8面の絵があり、仏教信徒は中央の柱の周りを回りながら仏を思い、自分の本性を探る修行をします。
捌相殿の仏像は東西南北の方向を向いて4つありますが、各々の手印は異なります。東を向いた仏像は‘施無畏印’つまり畏れのない手印、西を向いた仏像は‘転法輪印’つまり説法をしている姿、南を向いた仏像は‘降魔触地印’つまり地を指し、北を向いている仏像は涅槃の姿で横になっていますが、これは釈尊の一代記を形象化したもので、韓国では非常に珍しいものです。
捌相幀画の前には500に及ぶ小さな白い仏像(五百羅漢)があり、これは全世界に存在する無数の衆生を表しています。この仏像は長くたれた耳、くるくると巻いた髪の毛(螺髪)、頭の上に突き出たコブのような肉髪などを含め、仏の32相80種好の姿を表しています。
捌相殿の裏には高さ33m、重さ160トンに上る青銅弥勒仏があります。もともとここには1872年に高宗の父である興宣大院君が奉納した弥勒仏像があり、1939年には新しい仏像の建立が試みられましたが完成せず、1964年にセメントの弥勒仏像が建立されました。その後1989年になって現在の青銅仏像に入れ替わりました。

住所 忠清北道 報恩郡 内俗離面 砂乃里209
電話 043-543-3615
交通 清州バスターミナルよりバスで1時間50分

▲ページTOP

最古の大雄殿の寺院 修徳寺

寺院記録によると修徳寺は百済(BC18-660)後期に崇済法師によって創建されたという説と、599年に智命法師が創建したという説があります。
有名な僧侶の中にはこの修徳寺で暮らしたり、説法をした僧侶もかなりいます。近代韓国の禅宗を広めた鏡虚禅師も修徳寺で生活し、その弟子である満空もここで多くの弟子を教えました。鏡虚禅師は幼い頃、この寺に入門した僧侶で、31才の時にソウルに向かう途中、流行りの伝染病で死んだ多くの死体を目にし、これが人生の転換のきっかけとなり、その後修行を積んで解脱にいたったと言われます。
この寺院の歴史と関連したもう一人は尼僧である金一葉という僧侶で、見性庵で暮らし、入山の前は有名な女流作家でもありました。
座禅を修行する禅院、僧伽大学、戒律を学ぶ律院で構成されている韓国四大叢林の一つである徳崇叢林がある修徳寺には修行の指導者である方丈僧侶がいます。
修徳寺を訪れると屋根の軒には赤い如意宝珠をくわえた竜が彫刻された一柱門があります。また庭には三層の新羅石塔があり、そしてその周りには昔のものを再現した石灯があります。1308年に建てられた大雄殿は高麗後期の木造仏殿で、これは全国的に貴重な遺物が絶えない外敵の侵略で破壊されている中で、奇跡的に残存している建物です。従って歴史的な遺産として、又、その美しい設計においても大変貴重な韓国の文化財と言えます。特に高麗時代の簡潔かつ素朴な屋根の独特な美しさは人々を感嘆させる名高い建築物です。
その内部には仏像が3つ、菩薩像が2つ祀られていますが、この三仏は仏教の主要な特性を表しています。
まず釈迦牟尼は歴史上の仏で最初の師であり、阿弥陀仏は無限なる真理の仏、そして薬師如来は宇宙の治療師です。大雄殿の後方の壁には地蔵菩薩と十王の絵が、右側には韓国の土俗神の姿が描かれています。
修徳寺の上には小さな寺院である定慧寺があり、そこに行く道を15分ほど行ったところに高さ10mの花崗岩で作られた観音菩薩像があります。この菩薩像は1924年に満空禅師によって造られたもので、二重の冠をかぶり、衣は足首まで達していて堂々とした表情をしています。近くには満空禅師を讃えるために弟子たちが建てた近代式舎利塔があり、塔のてっぺんには大きな丸い石がおかれています。この舎利塔には‘全世界は一本の花である’という文句が刻まれています。

住所 忠清南道礼山郡徳山面修徳寺路79番
電話 041-330-7700
交通 禮山ターミナル又は洪城ターミナルより1時間

▲ページTOP

天台宗の本院寺院 救仁寺

救仁寺は韓国仏教の宗派の一つである天台宗の総本山の寺院で、小白山の景色の美しい森の中に1945年に建立されました。‘天台’とは‘天の庭’という意味で、この宗派は法華経を学び、これを修行することを根本としています。救仁寺の‘救仁’は仏教教理の一つである‘衆生の救済’を表す言葉から由来したものです。
救仁寺の主な教えは日常生活の中でいかに仏らしい生き方を発見するかをその目標としています。救仁寺に住む僧侶たちは昼間は仕事をし、夜は禁欲的な修行に専念します。境内には50棟の建物があって、約1万名ほどが収容でき、寺院にある畑で耕されたもので6千人を食べさせられると言われます。

住所 忠清北道丹陽郡永春面
電話 043-423-7100
交通 丹陽から救仁寺までバスで40~45分

▲ページTOP

多くの仏像で有名な寺院 聖谷寺

百済の首都であった公州の古仏山の上に建てられた聖谷寺には韓国最大の青銅坐仏像があります。
青銅坐仏像の両隣には2mあまりの金メッキの青銅仏が左右500体ずつ立っています。また青銅坐仏像の裏には青銅でできた仏陀の10大弟子の苦行像があり、さらにその後方に縦2m、横53mの銅板に金剛経が刻まれています。そして山の中の200mほどの小道には333,333体の夜光如来仏が並んでいます。これは仏陀が約2,500年前に霊鷲山で法華経を説く姿を再現したものです。
白い砂が輝く川べりを水晶のように澄んだ錦江が悠々と流れています。

住所 忠清南道公州市牛城面パンムン里サン2番地
電話 041-853-3355

▲ページTOP

独特な仏像の寺院 雲住寺

827年に道詵国師が建てたと推定される雲住寺は、その建立の理由がユニークな寺院です。伝統的な風水地理説によると韓半島は南西方面には山がほとんどないため、ひっくりかえる恐れがあるため、これを防ぐために雲住寺が1,000の仏像と1,000の塔とともに全羅南道の地に建てられたとされています。現在、約100あまりの仏像と塔が残されていますが、これらの仏像は岩壁に寄りかかっていたり、石造の家の中に座っていたり、地面に横になっていたりと伝統的な形式にとらわれず、独特でかつ抽象的に彫刻されています。

住所 全羅南道和順郡道岩面大草里
電話 061-374-0660

▲ページTOP

最大の尼僧道場である寺院 雲門寺

韓国の主要寺院の一つである雲門寺は虎踞山に位置していて、新羅時代に花郎の世俗五戒を制定した圓光法師が創建した寺院とされます。もとは大鵲岬寺と呼ばれましたが、その後、高麗太祖が「雲門禅寺」の扁額を与えた以来、雲門寺と呼ばれました。
境内には数多くの堂宇、新築された巨大な大雄殿、そして500年以上の樹齢をもつ有名な松(盤松)があります。この松は通りかかったある大師が植えた枝から育ったものだと伝えられています。
1950年、雲門寺は韓国最大の尼僧の専門講院となり、約250人の僧伽生が3-4年の仏教過程を定期的に学んでおり、経典と仏教史、そして仏教修行者としての戒律等について幅広く勉強しています。

住所 慶尚北道清道郡雲門面雲門寺道264番地
電話 054-372-8800

▲ページTOP

神秘の石塔の寺院 塔寺

今世紀初めの頃、李甲竜が馬耳山の南にある絶壁の下で10年あまりをかけて120あまりの石塔を築造しましたが、現在はその内約80の石塔が残っています。李甲竜は厳しい禁欲主義を守り、薬草と松の葉を食べながら塔を築きました。この塔は石を磨いて作った一般の塔とは異なり、李甲竜が全国から取り寄せた自然石を積み重ねて作った塔で、1mから15mまで高さも様々で、俗に‘神秘の石塔’と呼ばれています。天地陰陽の原理と八陳図法によって築き完成されたと言われます。
もう一つ、冬に器に入った尊い水の前にご祈禱を捧げていると器から10-15㎝ほどの長いツララが突き出る逆ツララ現象という不思議な現象が起こると言われます。


住所 全羅北道 鎮安郡 馬霊面 馬耳山367
電話 063-433-0012

▲ページTOP

写真提供:韓国観光公社